評価と指導は一体型だとよく言われますね。
会社での業績評価もそうですし、振り返れば義務教育の時から通知表と一緒に先生からのコメントをもらうのが一般的だと思います。
確かに、ある期間の行動を評価し、それを元に次の評価に繋げる指導を行うことで組織や人は成長していくわけですから、評価と指導は一体でないといけないものだと思います。
また、何も形式ばった評価の場でなくとも、日常の指導は何かしらの出来事に対する上司や先生の感想(評価)から発生するものであり、意図せずとも評価と指導は一体化するものだとも言えます。
しかし考えてみると、「評価」と「指導」は全く異なる観点から見なければいけないものだと思うのです。
にもかかわらず、評価と指導を一体化しているためか、誤った評価の在り方、誤った指導の在り方になっているケースが多く見られると感じるのです。
今回は評価と指導の在り方について考察してみようと思います。
指導は「未来」の行動につなげるもの
指導とは、過去を教訓として未来のより良い結果につなげるためのものです。
こんなの当たり前だと誰もが思うでしょうが、重要なのは指導の焦点が本人の行動の改善余地に繋がっているかどうか、ということです。
例えば
「同じミスの繰り返しじゃないか!もっと気を付けるように!」
というセリフは上司から部下への指導的文句としてよく見られるように思います。
この言葉自体が悪いというわけではありません。もしも以前にも同じミスをしていて、注意すべきと分かっていながら雑に仕事をしたのであれば、これにより「次はこうすべき」と未来の行動につながることになります。
では、もしもできる限りの注意を払ったにも関わらず同じ事態になったとして、同じことを言われたらどうでしょう?
本人からすればできる限りのことをしているのだから、それ以上の注意は払いようがありません。
この場合「気を付けるように!」の言葉は、言われた方にとってはただの精神的な負担でしかなくなってしまいます。
ひょっとしたらそれはミスではなく、そもそもその人の能力が及んでいないことが原因かもしれません。
そうであれば、同じく叱咤するとしても「どこそこを勉強しとけ!」とか「○○の理解が足りない!」と指摘のポイントを変えれば次の行動に繋がると思いませんか?
これらのアプローチの仕方の違いはどこなんでしょう?どうすれば次の行動に繋がるような指導になるのでしょうか?
それは、指導の焦点を過程や取り組みに置いているのか、単に起こった結果に対してのコメントで終わっているかどうかにあると言えます。
悪い例では単に起こった結果に対しての反応だけであり、”なぜその結果になったか”に対する配慮がないんですね。
先にも述べたように、本人に改善の余地があることが伝わる内容でなければ、その言葉は受け手にとってただの負担でしかありません。
もっと言うと、単に指導する側が自分の怒りをぶつけているに過ぎず、指導と言う面ではただのマイナス効果になってしまっている可能性が高いのです。
評価は「過去」の行動の振り返り
反対に、評価というのは過去の出来事を振り返って査定することが目的のものです。
振り返りが目的ですから、重視すべきは何が起こったのかという結果の部分です。
期末の業績評価であれば目標を達成できたか否か。
もしも日々の業務で同じようなミスを繰り返した結果があるのならば、これも過去の結果として組み入れるべきだと思います。
そうです、先ほどの指導とは異なり、今度は過程や取り組みよりも、起こった事実の方に目を向けることが必要となるのです。
なぜなら、評価とは過去の結果を振り返り、嫌な言い方ですが他者と差別化するために採点することが目的だからです。
過程や取り組みを評価に組み入れる場合であっても、例えばそれが他者と比較して秀でたものであったか否かや、業務環境を考慮したうえで精一杯のものであったか否かなど、あくまでその時点での事実のみに焦点を当てなければいけません。
指導は情が入っても良し、評価は客観的にするべし
ここまで指導と評価において、目の付け所の違いを述べてきました。
このように考えると、指導というのは叱責や情状酌量といったある種の情が入っても有効なものだと考えることができます。
人間は感情のある生き物ですから、叱責されたり、優しく諭されたりすることで次の行動に改善が加わるのであれば、これはまさしく指導の意義に合致していることだと言えます。
しかし注意しなければならないのは、あくまで次の行動の改善につなげるための情であるか否かです。
例えば叱責が次の行動への奮起に繋がることを通り越して、逆に委縮、新たなミスに繋がってしまうようでは、指導の意義からして本末転倒であることは自明です。
一方で評価の方は単なる出来事の振り返りですから、それ自体は淡々となされるべきものだと言えます。
評価は起こった出来事に対するものという観点を考えても、情が入ったところで過去の結果が変わるわけではないですから、情が入ることが評価の意義に合致して何か良い作用を起こすことは考えづらいと思います。
業績評価の面談の場で情が入った会話をする場面があるかもしれませんが、それは評価の値自体に影響するものではなく、面談の中で次の期の課題に取り組むための指導に移っている場合ではないでしょうか?
誤った評価や指導の在り方だと思うことが多すぎる
冒頭で、誤った評価や指導の在り方になっているケースがあるのでは?と指摘しました。
日常の社会を見渡してみると、評価の在り方、指導の在り方がその目的を外れていることが実に多いと感じます。
先の例で挙げたように、叱咤激励の域を超えて逆に次の行動を抑制するようなやり方は、ブラック企業やパワハラ、モラハラの問題を考えるとまさに指導の意義とは逆行するものであると言えます。
また、日本の社会では叱責する際の言葉選びにおいて、「出来なかった結果」に主な焦点が当てられることが多いように思います。
「こんなミスしやがって!」
「使えん!」
など、これらはすべて結果に対して感情的になっている例ですが、このような人が多いのではないでしょうか?
もちろん、これらの言葉が言われた側の次の行動に繋がれば良いのですが、多くはそこまで考えた発言ではないように思います。
ではどうすべきか?
「ミスをした」や「使えなかった」は事実ですから、それはそれで淡々と評価に低い点数として反映すれば良いだけの話です。
ミスした、使えなかった事実をネチネチと指摘したところで何の利点もありません。
叱責するのであれば、「怠慢」や「努力不足」など本人が具体的に改善できる過程について焦点を当てたものでなければ意味がないのです。
ちょっと話が飛躍しますが、日本の社会でこのように結果に対する叱責が多く見られるのは、年功序列といった雇用体制に一つの原因があるように思います。
基本的に降格のない年功序列の体制では、社員は地位に合った結果を出さないと会社にとって有害な存在になってしまうからです。
年功序列の是非については別の記事で書いていますので、よろしければそちらもご覧になってみてください。→「年功序列は本当に幸せか?」
今回は指導と評価の在り方について考察してみましたが、自分の周りの社会を見渡してみて、適切な在り方になっているかどうか観察してみてはいかがでしょうか?