生き方・働き方のヒント

精神論は嫌い。だけど精神の理論は大切。決定的な違いが分かりますか?

精神論と聞くと、どちらかと言えばネガティブな意味合いで使われることが多いように思います。

根性論という言葉が使われることもあるかもしれません。

「時代遅れだ」とか

「合理的ではない」とか

そんなニュアンスとともに使われることがほとんどじゃないでしょうか?

僕自身も「精神論」は非合理的だし、あまり好きな言葉ではありません。

しかし一方、どんな分野であっても一流と呼ばれる人たちは、ものすごく精神を大切にしていると感じます。

でも、彼らが大切にしているのは「精神論」ではなく、「精神の理論(メンタル)」だと思うのです。

これらは似ているようでまるで異なる考え方なのです。

精神論者は理屈から言って正しくないが僕の意見ですが、おそらく彼らは「精神論」と「精神の理論(メンタル)」をはき違えているのです。

何が決定的に異なるのか解説します。

精神論と精神の理論(メンタル)の決定的な違い

精神論は 「精神万能主義」

精神論の決定的な特徴であり欠点は、「精神」というもの一つしか考えておらず、万能であると考えるところにあります。

その他の要素が入り込む余地を排除してしまっているんですね。

やる気があればなんでもできる

精神を鍛えれば肉体的な限界を超えられる

これらは精神論で語られる典型的なフレーズだと思いますが、全てに差し置いてやる気が、肉体を差し置いて精神がと強調されているように聞こえます。

しかし、やる気があっても周りの環境が整わないことにはどうにもならないこともあれば、肉体が壊れてしまえば力を発揮することはもちろんできません。

だから精神論はやはりいくらか欠陥を抱えていると言うことができます。

にも関わらず、どうして精神論を好む人が出てくるのでしょうか?

それは、確かに精神を鍛えることによって最大限の成果を生み出すことが可能であるという事実があるからです。

けれども、それは「精神論」ではなく、「精神の理論」で考えた場合であることに注意しなければなりません。

精神の理論(メンタル)は「精神はあくまで一要素」

「精神の理論」も、精神が重要な要素であると考える点では「精神論」と同じです。

しかし決定的な違いは、「精神の理論」ではあくまで精神は必要な一要素でしかないと考えていることです。

少し見方を変えると、他の要素をより引き立てるために精神を必要としていると言えるかもしれません。

リラックスするための精神統一

規則正しい生活を送るために自分を律する心

努力を継続させるための意志の強さ

僕が思う「精神の理論」に該当するフレーズを考えてみましたが、どれも “~のために” 精神を必要とするの表現になっています。

「精神論」と違って精神が前のめりに主張してはいないんですね。

心・技・体という言葉がありますが、これも「精神の理論」に合致する考え方だと思います。

心だけでなく、技や体が整ってこそ最大の成果が発揮できるのです。

心は体を最高の状態にし、最高な体の状態は最高の技を生み出す。

このようなお互いを高め合う関係こそが「精神の理論」であり、非常に論理的だと思います。

一流の人たちは精神論ではなく、精神の理論(メンタル)を大切にしている

世の中で一流と呼ばれる人たちの発言や行動を見ていると、彼らはこの「精神の理論」を大切にしていることに気づかされます。

プロ野球の落合博満は、職業野球人としてのプロ意識の高さを説き、相当量の練習を重要視する一方で、一番重要なのは体力だとも述べているそうです。

体力がなければいくら意識が高くても長いシーズンは乗り越えられないとの考えですが、正に精神だけでなく、その他の要素も念頭に置かれています。

また同じくプロ野球になりますが、一貫した日々のルーティーンで有名であったイチローも同様です。

このようなルーティーンを毎日続けるには相当な精神力が要求されるはずです。

しかしその精神力は、日々やってくる試合に対して体の状態を最高に持っていくために費やしているのであり、ここでも「精神の理論」に基づいた考え方を見ることができます。

成功のためには精神の理論が必要

このように、精神は万能ではないけれども、一方で最良の結果を求めるためには必要なものと言うことができます。

ここで誤解したくないのは、精神論が嫌いだからと言って精神の大切さや熱意を持つこと自体を否定してしまわないようにすることです。

重要なのは精神を「精神の理論」として捉えているかどうか。

すなわち、何かを引き出すために精神が有効に活用されているかどうかということです。

何かを成し遂げるために、熱意や志、自分を律する心などは必ず必要になってきます。

でもそれらは必ず、その精神によって奮起させられる何かのために使われているのであり、人によってもまちまちです。

熱い精神が必要な人もいれば、冷静に自分を制する精神が合っている人もいるでしょう。

これらをはき違えて、自分に必要な精神の理論を他人に押し付けたり、精神だけが先走ってそれ以外が置き去りにされた場合には、ただの「精神論」になってしまいます。

あくまで「精神の理論」として有効に活用できるよう、自分自身の精神との向かい合い方について考えてみてはいかがでしょうか?

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